ロンドンの町はふかいきりにすっぽりとつつまれていました。
右を見ても左を見ても、見えるのは白いきりだけです。まるで町ぜんたいがミルクのコップのなかにしずんでしまったようなかんじです。昼間だというのに通りのりょうがわのお店はガスとうをつけています。そのガスとうのかがやきは、いまにもふかいきりにのみこまれそうに、ぼんやりしています。
「いよいよきたのね。パパ。」
きりのなかを走る馬車の上で、セーラはふあんそうにおとうさんを見上げました。
「やっとついたよ、セーラ。」
おとうさんのがっしりとしたうでがセーラをだきよせました。こうして、おとうさんのたくましいむねによりそえるのもきょうだけだと思うと、セーラのむねはさびしさでいっぱいになるのでした。
セーラはおとうさんといっしょに、インドのボンベイから船でイギリスのロンドンへやってきたのです。インドでしごとをしているイギリス人の子どもたちは、七さいになると学校へはいるためにイギリスに帰ります。
おとなたちはしごとがありますから、子どもを学校にあずけるとインドへ帰ってしまいます。つまり、子どもたちは、ひとりぼっちでイギリスの学校へ通うのです。学校には教室のほかに生徒たちがねとまりするためのへやもあります。
イギリスには、そういう生徒たちをあずかる小さな学校がいくつかありました。
「パパはいっしょに学校へいけないの。」
セーラが五つのとき、おとうさんに聞いたことがあります。
「なあに、パパといるより学校のほうがずっと楽しいさ。」
そういうおとうさんの顔もちょっとさびしそうでした。セーラは二年も前からきょうのことをしんぱいしていたのです。
セーラはおかあさんの顔を知りません。セーラをうむとすぐ、びょうきをしてしんでしまったからです。おとうさんがおかあさんの分までかわいがってくれたので、さびしい思いをしたことはいちどもありません。
セーラは自分でお話を作ったり、とんでもないことを考えたり、そうぞうしたりするのがすきな子でした。ときどき、自分がイギリスへいく日のことを考えたこともあります。けれども、そんなときは、あわててべつのことを考えたり、そうぞうしたりしました。
きょうのことを考えるのがおそろしかったのです。
(七さいになりたくない、七さいになりたくない・・・・・)
と、おまじないのようにとなえたこともありました。しかし、ついにその日はきてしまったのです。
「そろそろつくよ、セーラ。」
おとうさんがやさしい目でセーラをみつめました。
「パパ、もう少し・・・もう少し、町を走っていいでしょ。」
「遠まわりをするのかね。」
「馬がもっと走りたがってるわ。」
「はいはい、しょうちしました。小さなおくさま。」
セーラのととのった顔に、はじめてほほえみがうかびました。
小さなおくさま-------それはおとうさんのつけたセーラのあだ名でした。小さいけれどおかあさんのようにしっかりとしているセーラにぴったりのあだ名です。インドのおやしきでは、おとうさんだけではなく、おてつだいさんやコックさんまでがセーラを「小さなおくさま」とよびました。
そうよばれるとセーラは、自分がおかあさんのかわりになったような気持ちになるのでした。
セーラは、楽しかったインドでのせいかつを思い出すように馬車の上で目をとじました。
「十年ぐらいすぐたってしまうよ。」
セーラのやわらかくて長いかみをなでながらおとうさんはいいました。
本当にすぐでしょうか。セーラは七さいです。十年ということは・・・・・考えただけでおそろしくなりそうな長い時間です。
ことわっておきますが、セーラはけっしてさびしがりやではありません。みんなとわいわいさわいでいるより、ひとりでぼんやりしているほうがすきです。インドにいるときだって、しごとのいそがしいおとうさんは、あまり家にいませんでした。
では、セーラはべんきょうがきらいなのでしょうか。いいえ、セーラは本を読むのが大好きです。新しいことを知るのが大好きな子です。
学校にいかないうちに英語とインド語、そしてフランス語がペラペラです。
さびしがりやじゃなくて、べんきょうもきらいじゃないセーラが、なぜひとりで学校へいくのがいやなのでしょう。
それは、ロンドンで、なにかとてもおそろしいうんめいが自分をまっているような気がしたからです。セーラのそういうかんはふしぎとよく当たるのです。
「もういいでしょうか、小さなおくさま。」
おとうさんがおどけていいました。
馬車は町をひと回りして、ふたたび学校のそばにさしかかっていました。セーラは、こっくりとうなずきました。
もっとおとうさんの馬車にのっていたいけれど、きりがありません。
やがて、馬車はレンガづくりの大きなたてものの前でとまりました。
ミンチン女学校-------
つめたそうなてつのひょうさつが、きりのなかでセーラを見おろしていました。