セーラがいっしょうけんめいまっているのに、パパからのへんじはなかなかとどきません。
(きっとおしごとがいそがしいんだわ・・・・・)
セーラは自分にいいきかせるのでした。
では、パパのへんじをまつ間に、セーラが手紙に書いてない人たちのことを書くことにしましょう。
セーラはかみさまではありません。だから学校のなかには、セーラがきらいだという人もいます。ほんの少しですけど、そういう人がいるのです。
セーラはおとうさんにしんぱいをかけないように、そういう人たちのことを書かなかっただけです。
「なによ。まるで王女さまのつもりだわ。」
「こんどから王女さまってよんでやりましょうよ。」
みんなにとりかこまれているセーラのすがたを見て、いまいましそうに顔を見合わせるのは、ラビニアとジェッシーです。
みなさんの教室のなかにもいませんか。学校の行き帰りはもちろん、トイレへいくのもいっしょだというなかよしのふたり組が。
ラビニアとジェッシーはふたごのようにいつもいっしょのコンビなのです。しかもラビニアはセーラが入学してくるまでは、教室の女王だったのです。みんながみんなすいていたわけではありませんが、セーラがくるまではクラスの花形でした。それが、あっというまに、セーラに人気をうばわれてしまったのですから、ラビニアはおもしろくないのです。
もっとも、ラビニアとジェッシーは、かげでこそこそとセーラのわる口をいうていどで、セーラの目の前でいじわるをするようなことはしませんでした。そんなことをしたら、ますますクラスで人気がなくなってしまうことを知っていましたから。
そのジェッシーでさえ、うっかりとセーラをほめて、ラビニアをおこらせたことがありました。
「ねえ。ラビニア、セーラはこのクラスでいちばんべんきょうができて、りっぱなようふくをいっぱいもってて、みんなにすかれているのに、ちっともいばったりしないのね。」
本当にジェッシーのいうとおりでした。でも、ラビニアにしてみれば、いやみをいわれているように聞こえたのです。
セーラが入学してくる前のラビニアは、べんきょうができることも、きれいなふくをいっぱいもっていることも、みんなじまんのたねにしていたのですからね。
(どれほどわたしのほうがすてきかわからないわ・・・・)
ラビニアの心のなかでいつもつぶやいています。せいせきだってわるくないし、顔だちだって、見る人によってはラビニアのほうがうつくしいと思うかもしれません。
ただ、ラビニアがさかだちしてもセーラにかなわないものがあります。セーラの「お話」です。せきたんをはこんできたベッキーが聞きほれてしまったように、セーラの「お話」にはみんなをとりこにするまほうのような力があるのです。
きらいだ、きらいだといいながらも、ラビニアもジェッシーもセーラの「お話」のうまさだけはみとめないわけにはいきません。
そのしょうこに、みんなの後ろでなんとなくきまりわるそうな顔で、セーラの「お話」に耳をかたむけているラビニアとジェッシーのすがたをよくみかけることがあります。
さいしょは聞かないつもりでも、いちど聞きだしたら、さいごまで聞かずにいられないほどセーラの「お話」はおもしろいのです。
ラビニアとジェッシーがセーラをきらいだということは、クラスのみんなが知っています。ふたりとも、顔ではにこにこして、心のなかではきらいだと思うような、きようなことはできません。
だから、だれにでもふたりがセーラがきらいだということがわかるのです。
その点、おとなはちがいます。
顔でわらっていても、心のなかはにえくりかえっているようなことがあります。この学校にもそういう人がいたのです。
だれだと思いますか。
セーラの手紙をよく読んだ人はわかるかもしれません。
それはミンチン先生です。この学校でいちばんえらいミンチン先生こそ、セーラが大きらいなのです。ミンチン先生は、はじめてセーラを見たときから、なんとなく気にいらなかったのです。
セーラはじっさいの年よりずっとおとなっぽく見えたし、そのすんだひとみは、なんでも見通してしまうような強い光をもっていました。
(この子はゆだんできないわ・・・・・)
長い間、おおぜいの生徒たちのめんどうを見てきたミンチン先生のかんはたしかでした。
どうしようもないほどべんきょうがきらいなアーミーが、少しずつべんきょうがすきになったのもセーラとつきあうようになってからです。
火のついたようになきだして、どの先生も手におえなかったちびっ子ヒステリーのロッティーも、セーラがおかあさんがわりになってから、聞き分けのある子になってきました。
アーミーもロッティーもミンチン先生があきらめた生徒です。そういう子がいい生徒になってきたのですから、よろこばなければいけないのに、ミンチン先生は、はらがたつのです。自分の力では、どうしようもなかったことを、セーラにあっさりやられてしまったことがくやしいのです。
ほら、みなさんもこわれてつかえなくなってしまったおもちゃをすててしまったら、それをだれかがひろってなおして、前よりもぐあいよくつかっているのを見たら、なんとなくそんをしたような気持ちになるでしょう。
ミンチン先生の気持ちもそれと同じでした。
しかし、ミンチン先生はラビニアやジェッシーのように、セーラのわる口をいったりしません。かえって、はんたいにほめていたのです。
「みなさんもセーラをみならないさい。どうして、セーラのようにできないんですか。」
もし、ミンチン先生がセーラをしかったりしたら、いじわるをしているように見られてしまうでしょう。
それほど、セーラのやることはかんぜんだったのです。しかりたくてもしかれなかったのです。
ほかにもりゆうがあります。インドにいるセーラのおとうさんからは、毎月たくさんのお金がミンチン先生のところにおくられてきます。お金だけではありません。えらい人のひとりむすめをあづかっているということは、ミンチン女学校にとって、せんでんになるのです。
日曜日になるとミンチン女学校の生徒たちは、二れつにならんで近くの教会までおいのりにいきます。そんなとき、ミンチン先生はセーラにいちばんいいようふくをきせて、先頭を歩かせます。
ビロードのうわぎにだちょうのはねかざりのついたぼうしをかぶったセーラは王女さまのように見えます。そのすがたは道ゆく人たちがふりかえるほどでした。
先頭を歩く子どもがりっぱだと、そのあとにつづく子どもたちまでりっぱに見えることをミンチン先生は知っていました。りっぱな生徒がおおぜいいるということは、ミンチン女学校がりっぱな学校だと思われるのです。
だからミンチン先生は、ぎょうれつの先頭には、いつもいちばんいいようふくをきている子どもを歩かせるのです。セーラがくる前はラビニアでした。
「わたしは新入生ですからいちばん後ろでけっこうです。」
そういうセーラを、ミンチン先生はむりやりに先頭にしました。ラビニアの気もちなんかおかまいなしでした。
自分よりいいようふくをきているというだけで、ラビニアは先頭を歩かせてもらえなくなってしまったのですから、セーラをうらみたくもなります。
とにかく、これほど子どもたちの気もちを考えない先生はいないでしょう。そのくせ、生徒たちのおとうさんやおかあさんがあいさつにきたりすると、きまってこういうのです。
「本当によくできたお子さんで、教えるはりあいがございます。おほほ・・・」
子どもをほめられておこる親はいません。
どの親もミンチン先生にたくさんのプレゼントをわたしてあんしんして帰ってしまうのです。
セーラはそんなミンチン先生の正体を見ぬいていました。
ミンチン先生がセーラをすきでないということもセーラは知っていたのです。
セーラがおとうさんに手紙を出して半年もたったある日、だれかがドアをノックしました。
ミンチン先生が一通のふうとうを手に立っていました。
「おとうさまからのお手紙ですよ。」
「パパからですか!」
セーラは思わず大声を出してしまいました。
ついにきたのです。インドのパパからまちにまったへんじがとどいたのです。